親の思い
22歳の春、私は若き青年布教師だった。
その年の秋、天理教青年会本部主催「アメリカ布教研修隊」の一員として
ハワイ、アメリカ本土に派遣されることになっていたのだ。
▲ハワイ島 シティ・オブ・レヒュージにて
この研修隊はハワイの教会や布教所での布教実習の後、アメリカ本土に渡り、
ロスアンゼルスにあるアメリカ伝道庁を起点にして、西海岸をカナダのバンクーバーまで北上、いったん南下した後、シアトルからカスケード山脈を越えるインターステート90号線を東に向けて走る。
モンタナ州で15号線に乗りロッキー山脈の西側に沿って南下。ラスベガスまで行った後、ロスアンゼルスに戻るという総延長5000kmにものぼる壮大な布教キャラバンだった。
参加費は約30万円。当時としては相当な金額であったが、大教会から全額支給されるという。
「君の抱負を聞かせてくれませんか」
大教会月次祭後の海外部会議で部長が私を指名した。
「天理教のアメリカ社会への浸透度と問題点、若い世代の受け取り方、今後の海外布教活動へのポイント、以上について実際の布教活動を通してリサーチしてみたいと思います」と私は述べた。
「ほう、それはいいレポートが書けそうだね」
「ありがとうございます」とお礼を述べるとすぐに部長が続けた
「ところで、君に一つ頼みがあるんだけど」
「はい」
「お土産を持って行ってもらえないかね」
「よろしいけど……何でしょうか?」
部長の口調に何か含みを感じてやや不安げに尋ねた。
「神様のお社(やしろ)を持って行ってもらいたいんだよ」
意外なお土産に少し驚き、荷物が増えるから嫌だなあと思った。
しかし、ただで行かせてもらえるんだからと自分を納得させた。
「そうですか、でそれをどこへ持って行けばいいんですか」
すると部長がぞっとするような一言を発した。
「それを見つけるのが君の役目だよ」
私は絶句した。
(無理、無理、絶対に無理)
心の中で必死に断る理由を考えた。僅か一か月間で、アメリカ人にとって初めて名前を聞くかもしれない胡散臭い宗教のお社を現地の家庭にお祀りして来いだなんて正気の沙汰じゃない。
「毎日のお供えとか、おつとめとかがありますし、後々の丹精が気になります」「それは大教会でなんとかするので、君は心配しなくてもいい」
私は懸命に断ろうとしたが、部長の決意を翻すには至らなかった。
「ハワイは常夏、カナダは冬です。荷物が増えるとスーツケースが二つも要ります。超過料金も発生しますし、重いです」と言ったとき、
「確かに重いかもしれない、でもね、そこには『親の思い』がこもっているんだよ。ぜひ挑戦してほしい」と部長から決定的な言葉をもらい、私はついにスーツケースの半分を占める白木のお社を携えアメリカ布教に飛び立つことになったのである。
さて、その会議の直後から私の「お社大作戦」が始まった。飛び込みで家庭訪問しても100%アウトだ。下手すりゃ銃で追い返されるかもしれない。
―――どうする?
幸い、ハワイに10日間滞在できるし、アメリカ西海岸でのキャラバンのコースと予定は決まっている。そこに住んでいる人達にお願いすればいいのだ。
だが、今のように簡単に海外と通話できる時代ではなかった。気の弱い私には高額な国際電話など心臓がドキドキしてかけられるはずがなかった。
そこで、私は情報のアンテナを四方に張り巡らせた。
ハワイ、アメリカ、カナダに親戚、友人、知人がいると聞けば、片っ端から住所を尋ね手紙を書き、(もちろんお社のことは内緒にしておき)可能な限り面会のアポを取った。
6月から8月までは教会本部修養科に入ったので益々自由時間が無くなった。
しかし、いったん覚悟を決めると意外にも自信のようなものが湧いてきた。
こうしてできる限りの準備を整え修養科で心を磨き、11月の出発日を迎えたのであった。
行くぞ、ハワイ・アメリカへ
▲ハワイ島 コナ コーヒー豆の収穫体験
ハワイではハワイ島コナの布教所にホームステイさせていただいた。布教所の周辺での戸別訪問、信者さんのおたすけ、有名なリゾート地でのリーフレット配布、あるいはヒロ市にある教会で月次祭をつとめさせていただいた。
休日にはビーチに出かけてバーベキューを楽しむなど布教所長様を初め、ご家族、親戚の方々から心温まるおもてなしをいただいた。
だが、コナには「お社大作戦リスト」に載っている方がいなかった。不安と焦燥感から、私には鮮やかな景色がだんだんと色彩を失い灰色に見えてきた。
ホノルルに戻り、やっとリスト一番目の方と約束したレストランに向かった。ハワイで決めるのだとの強い思いで臨んだ。
ところが、お会いしたとたん、「オーマイゴッド!」だった。
なんと手紙では、名前から男性とばかり思いこんでいた相手が実は女性だったのだ。更に、こちらが何にも言わないのに
「私は天理教の信者ではありませんから」と予防線を張られてしまった。
非礼をお詫びすると、
「完璧な英語のお手紙でしたよ。宛名にミスターさえなければね」と笑顔で応えられた。
私は気持ちを切り替えて愉快な会話を心掛け、爽やかなワイキキの風に吹かれながらおいしいランチを楽しんだ。
さあ、アメリカ本土へ
ホノルル空港を離陸したジェット機はロスアンゼルスに向けてグングン高度を上げていた。眼下に広がる青い海とサンゴ礁で白く砕ける波を眺めながら、アメリカ本土での布教を考えた。残り期間は20日間、訪問するいくつかの町でのアポも取ってある。心配ない。と自分に言い聞かせながらも不安と重圧で心を倒しそうになった。
ロスアンゼルスにあるアメリカ伝道庁で講習を受けた後、28人の隊員たちはアメリカ青年会の強力なサポートを受け、4台の大型ワゴン車に分乗してアメリカ西海岸5000キロの布教キャラバンに出発した。
ロスアンゼルスを出発して数日後、宿泊していたサンフランシスコのホテル前に低い排気音を響かせてスポーツカーが停車した。長髪の素敵な女性が「フェアレディ280Z」の運転席から降りてきた。
初対面の挨拶を済ませると、彼女は不思議そうに尋ねた
「あらカメラは?カメラを持っていない日本人旅行者を初めて見たわ」
私は、単に部屋にカメラを忘れてきただけだったのだが
「私の心には素敵なカメラがあります」と、ついかっこいいセリフを口にしてしまった。日本語ではとても気恥ずかしくて言えないような言葉でも、英語なら自然と口に出てくるのが不思議だった。だが、そのため彼女とのツーショットは一枚も残っていない。トホホである。
ただ、私の記憶に鮮やかに残っているのは、世界一美しい橋と称される「ゴールデンゲートブリッジ」の上で車から降り、青い海峡と高層ビルを背景にして彼女が友人から託された手紙を読んでいる情景である。
有名な観光地であるとともに自殺が多発するこの橋に、今ではむろん車を止めて風景を味わうことなど決してできない。大学で講師を務める彼女は、私と同じ大教会につながる「ようぼく」だった。お社をお願いする相手はこの人しかいない。私はチャンスをうかがっていたが、なかなかきっかけがつかめなかった。
昼前、彼女がサンフランシスコでお世話になっている天理教W教会に一緒に参拝した。ゴールデンゲートパークの近くにある瀟洒な教会には、幸運にも尊敬するH先生がおられ親しくお話を聞かせていただいた。そのうえ、昼食に大好きなうどんまでご馳走になり感激して教会をおいとました。
ホテルまでの帰路、思い切って「お社」」の話を切り出した。
「実は、日本から素敵なお土産を持ってきているんです……」
ここぞとばかり、熱意を込めて真剣にお願いした。
すると意外にもあっさりとOKされたので拍子抜けしたような気持だった。だが、気が変わってはいけない。ホテルに帰るやいなや部屋に戻り、
「日を改めて、大教会から先生が来られるのでそれまで大切に保管してください」と車で待つ彼女にお社を渡した。
――ミッションコンプリート!
遠ざかるフェアレディが視界から消えるまで見送り、深々と頭を下げると、心の底から喜びがじわじわと湧いてきた。しかし、この時、一週間後に本当にぞっとする経験をすることになろうとは知る由もなかった。
雪の大平原で
▲左・バンクーバー ▲右・ワシントン州スポーカン
サンフランシスコを出発した我々は、ポートランド、シアトル等アメリカ西海岸の都市に滞在しながらカナダのバンクーバーまで北上した。バンクーバーで数日過ごした後、一旦シアトルまで戻り、布教キャラバン隊はインターステート90号線を東に向かった。
右手には透き通る蒼い空を背景に「タコマ富士」とも称される壮麗なレーニア山が眺望できた。凍結の危険があるカスケードの山岳地帯を慎重に通り過ぎ、大平原を緩やかに下って行った。
1978年11月23日、当時の手帳には「雪、雪、何もない大平原」と記されている。
もう少しで宿泊予定地スポーカンに到着できる。
その時、隊長が急に険しい表情になった。
「おかしい、オレンジ号が消えた!無線にも応答しない」
車体の色からオレンジ号と名付けた後続車が見えなくなったのだ。
車内は不安と緊張に包まれた。ハイウェイを急いでUターンし、その光景を見たとき、誰もが最悪の事態を覚悟した。ハザードランプを点滅させ、道路わきに停車した後続車の先には、突然道路から消えたオレンジ号が腹部を見せて横転していたのだ。
蒼白な表情で隊長が駆け寄ると、副隊長がハンカチで額の傷を抑えながら現れた。
「隊員は、無事か?」
「全員無事です。ちょっと擦りむいたり打ったりした程度です」
「あのスピードで突っ込んだのによう助かったなあ」
「坂道を降り切って道も凍結していないように見えたんですが、いきなり車がスリップしてガーッと。目の前には岩山が迫ってくるし、もう駄目だと覚悟しました」
道路にははっきりとスリップの後が残り、横転した車の僅か数メートル先にはごつごつとした巨大な岩が続いていた。
現場検証をした保安官が「あそこに突っ込んでいたら死傷者がいたかもな」と岩を指さしながら言った。
事故を起こしたところは偶然にも柔らかい草場で雪が積もり、それがクッションの役目を果たしてくれたようだった。
「ご守護やなあ。ほんまご守護や」隊長は心底から感激していた。
隊員たちは事故の興奮が治まるにつれて常識では及びもつかぬ親神様のご守護に感謝し、言葉では言い尽くせぬ感動に身が震える思いだった。
「親の思いがこもっているんだよ」
私は、大教会での海外部長の言葉を思いだしていた。
軽く受け流せば、それだけのもの。
だが重く受け止めれば、親の思いは深く、厚い。
◎この話は、1978年11月から12月にかけてのアメリカでの布教体験をもとに書きました。内容は事実です。
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