若いころ、ニューヨークに憧れていた。甘えが許されない厳しい社会で、自分の力を信じて逞しく生きていく人たちの中で暮らしてみたかった。
そんな私に「1年間、ニューヨークで布教してみないか」と、所属する大教会の海外部長からお話をいただいたとき、矢も楯もたまらず行きたかった。でも、それは、当時の我が家の状況から考えて、とても無理な願いだった。そんなとき、“ニューヨークの想い”という歌をよく聞いていた。この曲が有名なビリー・ジョエル作の歌だと知ったのは後のことで、このころ聴いていたのは、アン・バートンの曲だった。ニューヨークの美しさ、愉しさ、厳しさ、辛さ等、をすべて含んだ街の魅力を哀愁を帯びた旋律に乗せ、しっとりとした大人の女性の声で語るように歌ってくれた。
夢が実現したのは、37歳の時だった。大教会での大きな記念行事を1年後に控え、「ニューヨークで単独布教する青年を激励し、ロスアンジェルス近郊の大学院に通っているようぼくとその家族、またアメリカ各地に住む信者さんたちを訪問して、旬の動きを伝えよう」と、海外部で話が持ち上がり、有志たちで旅費の積み立てを開始した。現在のようにインターネットは普及しておらず、連絡手段は国際電話か手紙しかなかった。それでも、徐々に話がまとまり、5人の部員が10日間の予定でアメリカを訪問することが決まった。
広いアメリカに点在する信者さんたちを訪問するために、私たちは、まずニューヨークに数日間滞在した後、南と北の二手のコースに分かれ、ロスアンジェルスで合流することにした。
1993年の晩秋、ニューヨークに到着した私は、添乗員のような役割を務めていた。そのため、極度の緊張感からストレス性の鼻炎と不眠症になり、さらに、滞在中にはベトナム系アメリカ人とよく間違えられた。“鼻炎(びえん)”に、私のニックネーム “ジョン”、そして本名の“香取”を付け加え、ここに「鼻炎のJohn・Kandori」すなわち、ビエン・J・Kが誕生したのだった。ニューヨークは、私の故郷でもあるのだ。
R2.8月号 陽だまり語録 144
0コメント