初めて訪れた町を歩いていて、どこからか太鼓の音が聞こえる。子供の時から耳に慣れ親しんだ音だ。誘われてふらふらとそちらへ足を向けると、拍子木やすり鉦の音が加わり、「やっぱりおつとめだ」と嬉しくなったものだ。
ところが最近、太鼓の音が聞こえなくなってきた。都会では騒音に対する規制がだんだんと厳しくなり、ご近所への配慮もあってか、外へ音が漏れないように苦心されているのだそうだ。参拝場の気密性が向上し、夏は涼しく冬は暖かく快適におつとめをさせていただける空調設備が増えているのも原因の一つかもしれないが、ちょっと淋しい気がする。
夏の夕方、家路を急ぐ道で、我が家の方からおつとめの太鼓が聞こえてくると、なんだかほっとする。その温もりのある音も立場変われば騒音にしかならないのだから、仕方ないのだろうか。
さて過日、和太鼓の演奏を聞いた。私は音楽の専門家ではないので率直な感想だけを述べると、これは「格闘芸術」だと思った。鍛え上げられた肉体、ほとばしる汗、打ち出された音は耳だけではなく体で感じる。演奏する姿も凛々しく美しく、見せる要素がふんだんに盛り込まれ十分に楽しむことができた。しかも複雑な音階が存在しないはずの太鼓から、バチ使い、リズムの正確さ、音の強弱、複数の太鼓の組み合わせによって旋律のようなものを感じるのである。和太鼓の中には巨木をくり抜いた長胴太鼓のように一台が数百万円もする高価なものもあり、音色や余韻は違うかもしれないが、どんな太鼓でも大きく打てば、大きく響く。小さく打てば小さく鳴る。
しかし、時には小さく打っても相手の心に大きく響くときもある。また、自分では大きく打っているつもりなのに音が全く届かないときもある。そんな時、自分自身のトレーニングを怠っておいて太鼓が悪いと責めてはいないだろうか。あるいは太鼓のサイズに合っていないバチを使ってはいないだろうか。心静めて思案をすれば、打ち方が悪いのかも知れない。打つ位置を間違えているのかも知れない。もしかすると、バチの元と先を間違えて握り、打っているのかも知れない。
H24.1月号 陽だまり語録 42
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