どの世界においても創設者と呼ばれる人たちは、たいてい魅力的だが一風変わった人が多い。荒野に一筋の道をつけるような仕事を成すわけだから、常識的な考えや行動だけでは通用しないのが当然なのだろう。
私の祖父もご多分に洩れず、偏屈やへそまがりという言葉がピタリと当てはまる人で、ワンマンだが「たすけ心」を常に持ち一筋に尽くす理を重んじていたように記憶している。ただ、その人をくったような態度と豪胆さから想像すると、もし信仰をしていなければ別の道を極めた人になっていたかもしれない。
ところで、私は小心者の八方美人で「たすけ心」が不足しているのに、へそまがり的な性質だけを貰ってしまったようである。こどものころから人と同じことをするのが嫌いだった。たくさんの人が良いと言えば言うほど興味が急速に薄れ、むしろ反発心さえ湧いてくるのだった。たとえば小学生の頃、子どもたちのヒーローと言えば「巨人・大鵬・卵焼き」という黄金の3点セットが喧伝されていた。しかし、私は「阪神・柏戸・目玉焼き」のように真の実力を持ちながらも運命に翻弄され、常に二番手を余儀なくされる「もの」のファンだった。
だから1985年、それまで低迷していた阪神が見事に復活し、全国的に六甲おろしが吹き荒れて巨人をしのぐような人気球団になり始めた頃から急速に興味を失っていった。誠に困った性格である。だが、お道のパイオニア達はこのへそまがり的精神を自分達の信じる道に生かしていたのだと思う。つまり、たとえ人から偏屈と言われようがどうしようが、神様に対しては素直だったのだ。
「ひとがなにごといはうとも かみがみているきをしずめ」というみかぐらうたに勇気付けられながら真っ直ぐに歩んでいったのである。私達は今、このおうたを唱えながら、実は「人」と「かみ」とを逆にしたような行いをしてはいないかと反省しなければならない。
学生時代の恩師に「阪神は好きだけど、阪神ファンは嫌い」と公言される大変なへそまがりがいらっしゃるが、「お道は好きだけど、その信者は嫌い」と言われないよう、自戒を込めて切に願う。
H22.4月号 陽だまり語録 20
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