クリスマスに思う

 毎年マスコミがクリスマスの話題であふれる季節になると、とても憂鬱な気分になってくる。この国に住む人々の信仰は、いったい何なのだろうか?正月には神社へ参り、結婚式はキリスト教の教会で、葬式は仏式で執り行い、神社仏閣へは物見遊山のついでに参る。即ち、物事を深く考えず、ロマンチックだ、お洒落だ、有名だという理由で上っ面だけをマネる“俄か信者”が増えてしまうのだ。

 また、ようぼくでありながら(中には教会長の子でさえも)改宗したわけでもないのに、キリスト教会で結婚の誓いをするカップルがいると聞く。まあ諸般の事情で仕方がなかったのだろうけれど、もう少し襟を正して欲しいと願うのは私だけではないだろう。

 さて、私は最近までクリスマスとはキリストの誕生をお祝いする日だと単純に思っていたが、どうもそうではないらしい。ただ、知識の浅い者が知ったかぶりをして軽率なことを書けないので「そうではないらしい」に止めておく。

 と、こんなことを書いているが、実は私も子どものころ、妹たちクリスマスツリーを飾るのをとても楽しみにしていた。12月になると近所の里山から切ってきた小ぶりな樅の木に赤、黄、緑の電球やさまざまのデコレーションをし、雪に見立てたコットンを乗せて玄関に置いた。天理教の教会の玄関にピカピカ光るツリーは今から考えると不自然だし、あの厳しかった初代会長がよく許してくれたと思う。

 それから時が経ち、親となった時、子どもたちに「うちは天理教だから、教祖の誕生日をお祝いしような。残念だけど、サンタさんは来ないのでクリスマスプレゼントもない」とはっきり宣言しておいた。

「でも、宗教は違ってもクリスマスというのは世界中の大勢の人を救われた方の降誕をお祝いする日なので感謝していただこうな」と特別に食卓に並んだケーキやチキンを美味しく味わったものだった。

 今年もクリスマスが近づいてきた。私たちは今、コマーシャリズムに踊らされて本質を見失っていないか。表面だけをマネして快楽のみを追及していないか、わが身を静かに振り返る必要がありそうだ。

H22.12月号 「陽だまり語録」28


陽だまり語録

あってもなくてもいいけど、あったらいいな、という食後のお茶かコーヒーみたいなエッセイです。「陽気」誌連載(2008.9~2020.12) ペンネーム: ビエン.J.K

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