我が家の車にはカーナビがある。別に自慢するわけではないが、私はこのカーナビに「松下奈美」という名前を付けている。姓はメーカー、奈美は“ナビ”と読む。
“奈美(なび)”はこの10年間、文句も言わず健気に尽くしてくれた。見知らぬとこへ行くときにはとても便利だった。ところが最近、奈美のようすがちょっと怪しい……あれは四国のある町に行ったときのことだった。
それは海沿いの古く細い道だった。陸地側の斜面には灌木(かんぼく)が密生し、細い枝が切れ目なく道路上に張り出していた。木々に注意しながら恐るおそる進んでいくと、海水をかぶりそうなくらい海が接近し、不安になって引き返したのだ。
後で地元の人に尋ねると、「あれは旧道で、軽四ぐらいしか通れんよ」ということだった。無論ディスクを買い替えて更新しない私が悪いのだが、どんどん変わる道路状況に奈美(なび)は対応できないのである。当然、新しい道も画面に表示されない。
昨年、鳥取の「はわい温泉」に行ったときにも帰路で道に迷ってしまった。しかも地上波デジタル放送に移行してからは、テレビまで見ることができなくなってしまった。私は車を運転しながら「奈美(なび)よ、お前も年をとったなあ……。新しいピチピチのナビに取り換える時がきたかな」と不届きなことをつぶやいた。
そのとき、不意に「小意にこだわり大意を得ず」という言葉が浮かんできたのである。「小異を捨てて大同につく」が正しい用語で、意味も使い方も明らかな誤りなのだが、なぜか正鵠(せいこく)を射ていた。すなわち、車を利用することの目的は、安全に早く目的地に到着することが「大意」であるのにもかかわらず、道中の快適さや楽しみとか利便性という、本来の目的からすれば「小意」にこだわり過ぎていたのである。何事も本質を見失わないことが大切なのだ。
「どっちが大事かよく考えてね」と言われたような気がして、私はこの“奈美(なび)”ともう少しお付き合いをすることにした。
H24.6月 陽だまり語録 46
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