この人さえいなかったらどんなに楽だろう、全てうまくいくのに……と思ったことはないだろうか。自己中、空気が読めない、じゃまをする。
かつて、私の開いている小さな学習塾にも、そんな生徒がいた。
▲ここから、帰ってゆく彼の背中を拝んでいた。
「おっさん、モクくれや。ヤニが切れた」と、中3になったばかりのガキが煙草を吸うしぐさをしながら言い放つ。こんな時、キレたり無視したりしてはいけない。彼はこちらの度量を試し怒らそうとしているだけなのだから、キレたら負けである。だが、
バカにされてどうして我慢しなければならないのか……。
私の心の中では苛立ちと使命感が挌闘し続け、ただ意地だけで指導していた。
そんな時、ある人の言葉を思い出した。
「あなたにとって都合の悪い人は、神様からのプレゼント、あなたを育ててくれる恩人です。教育には、共に育つという意味も込められているのです。だから、帰るときだけでいいから、その人の背中を拝みなさい」
彼が帰るときはホッとする。それぐらいならできると思ってやってみた。
すると、暫くして微妙な変化が現れてきた。ポツリポツリと自分のことを話してくれるようになったのである。ひねくれてつっぱった仮面の内側には、驚くほど繊細な心を持つ素顔の少年がいた。初めて、親しみが湧いた。
ところが、2学期になると、全く学校へ行かなくなってしまったのである。
親も学校の先生も随分と心配して登校を促した。しかし、彼は頑なに拒んだ。ただ、塾にだけは休まずに通ってくる。不思議に思い尋ねると意外な答えが返ってきた。
「オレが行くと、みんなに迷惑をかける」と言うのである。
結局そのまま不登校を続けたが、なんとか遠方の学校へと進学した。
私は彼に何ができたのだろうかと、自問した。
数学と英語の基礎を教え、ただ雑談の話し相手になっただけだ。成績も伸びなかった。不登校も解決しなかった。心の底に敗北感を抱えたまま春を迎えた。
だが、新学年が始まって、私は愕然とした。彼のため、悩み苦しんで作り上げた教材がそのまま使えるのだ。心の格闘の跡が全て自分の新たな力となっていたのである。まさに「教育」とは「共育」という言葉を実感した。
H21.2月号 陽だまり語録 6
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