「人生は旅である」と、どこかで聞いたことがある。気になって調べたら、作家吉川英治の名言だった。『この人生は旅である。その旅は片道切符の旅である。往(い)きはあるが帰りはない。』というものだ。なかなか味わい深い素敵な言葉である。
また、歌人松尾芭蕉は「奥の細道」の冒頭に『月日は百代(はくだい)の過客(かかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり。』という有名な行(くだり)を記している。
見知らぬ土地への憧れ、人との出会い、予期せぬ出来事あるいは、遊ぶ、食べる、泊まるといった楽しみを求めるなど、旅にはなんとも言えない魅力がある。
しかし、旅はただでは行けない。つまり旅行に必要な金銭がいるのだ。この旅費のことを路銀と呼ぶのである。だから潤沢(じゅんたく)な路銀があれば、さらに楽しみは増幅されるだろうと思う。
さて、私たちようぼくは教祖(おやさま)からおさづけの理をいただいている。本来の意味とは少しずれるかもしれないが、「長(なが)の道中、路金(ろぎん)なくては通られようまい。路金(ろぎん)として肥授けよう(稿本教祖伝48項)」と、道の路金をいただいているのである。
このお言葉の意味を「道一条で通っていても社会の中で暮らしていかなければならない。だから生活の糧(かて)を得るための手段として路金を与えてやろう」と、私はずっと思い込んでいた。しかし、路銀が旅の楽しみを得るためのものならば、路金はようぼくとしての旅を楽しむための旅費と考えたらどうだろうか。
ただ、この旅の道中には楽しみばかりがあるのではない。真実を尽くしたつもりが、思うような結果を得られず、罵倒(ばとう)され、打ちのめされることがある。信じた相手から裏切られ、立ち上がれないほどのショックを受けることもある。それでもいいではないか。
おろおろしながらもひたすら親神様にもたれて、おたすけに励めば必ず喜べる日がやって来る。 私たちは、教祖からたっぷりとした路金を与えられているのである。しかも“路銀”ではなく“路金(ろぎん)”なのだ。金と銀の、違いは大きい。
H25.4月号 陽だまり語録 56
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