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 春 霞

 数年前の春だったと思う。久しぶりに訪れた大学正面の石段には懐かしい顔が並び、和やかに談笑しつつ記念撮影を待っていた。数百人はいるであろう人々の中には、各界で活躍する著名人の姿も混じり記念の行事を一層華やかなものにしていた。

 眼下には陽光を受けて輝く神戸の港、遠くには泉南の山々が春霞に煙り、木々を渡る風が心地良かった。

 卒業後二十数年の隔たりも、「よお!久しぶり」の挨拶だけで、まるで昨日別れたかのように、お互いが時計の針をあの頃に戻していた。

 私は、心に微(かす)かなわだかまりを残したまま、その中にいた。

「大学で、応援団の四十周年記念式典があるから、お前も来ないか。同期の連中も会いたがっている」と、親しい友人から誘いの電話があった時、私は即答できなかった。

 開催日は、ちょうど妻と娘を伴い教会本部に参拝する日だったが、夕方までに到着すれば間に合う用事であり、その道中にある大学での行事参加を逡巡する理由はどこにも見当たらなかった。

 しかし、時にかたくなな私の性格は、素直に友人の好意を受け入れられずにいた。

 一度やめた団の行事に、未練がましくのこのこ出かけていけるもんか。

やっぱり断ろうと、電話に伸ばしかけた私の手を止めたのは、

――いったい、誰だったのだろう?

という長年の疑問だった。

 平成十二年の『陽気』二月号に掲載された「父への手紙」という短編小説の中では、恩人として当時の団長に宗谷という仮名で登場してもらった。

 しかし、本当のところは同期やその前後の世代の誰に聞いても、知らないと首を振るだけだったのだ。

 私に引け目を感じさせないためにわざと口裏を合わせているのだろうか。

 だが、それは不自然だ。たった一人の中途退団者のために、大勢の人々が二十数年も隠し続ける意味が無い。

 直接、家庭教師先を紹介して下さった恩師である西村教授も、ついに「誰か」を教えて下さらないまま他界され、真実を確かめる術(すべ)は限られている。

 青春の一時期を共有した大勢の人たちが一同に会するこのチャンスを逃せば、永遠に分からないままだろう。

 自分のつまらぬこだわりなど、どうでもいい。

 誰が私のことを……、父を無くし、アルバイトも全てクビになり、大学中退を余儀なくされた私のことを助けてくれたのだろうか。

 私は、どうしても知りたかったのである。 

 昭和五十一年の冬、ちょうど本部では教祖(おやさま)九十年祭が執行され、「をや」を慕う大勢の人々で神苑は賑やかだったに違いない。当時、国鉄の駅に旅客係として勤務していた父は、団参列車輸送係として何度も天理と岡山を往復していた。

 私たちの教会では、移転建築の起工を年祭直後の春に控え、初代教会長である祖父を中心に連日のように普請会議が開かれていた。

 普請が竣工し、後継者の長男である私が大学を卒業すれば、父が仕事を辞めて二代教会長に就任する。それが、小さな教会のささやかな願いだった。

 だが、親の望む道から少しずつ離れつつあった私は、その冬の後期試験終了と共に信州野沢のスキー場に姿をくらまし、結局一度も九十年祭に参拝しなかった。

 大学の応援団の主催するスキー旅行は、幹事として参加すれば費用は全てタダという条件が魅力だった。私は、友人と共に先に現地入りして参加者の受け入れ準備を済ませ、民宿の主人と濁り酒を酌み交わし、大いに語った。

 それが、順風に帆を揚げていると思い誤っていた最後の夜だった。

 翌朝、さあこれからゲレンデに出かけようとスキー靴を履きかけた私の耳に信じられない放送が聞こえた。

 村内に設置してある拡声器から、私の名前が呼ばれているのだ。しかも、すぐ家に電話をするようにと、アナウンスは続いた。なぜ、ここに居る事がばれたのかと訝(いぶか)りながら家に電話すると、母が出た。

 お父さんが入院して手術を受けることになった。こんな大事な時に、親に内緒でどこにいるのか。さんざん苦労して探し回った。すぐ帰るようにと叱られた。厭な予感がした。


父への手紙


「お父さん、あなたのために雪の野沢から特急に乗り継ぎ帰った日、あなたは寂しそうな笑顔を浮かべ、『たいしたことはないんじゃ。ちょっと胃が悪うてな』と、大きな手で僕を安心させてくれました。でもその晩、僕は母からあなたの本当の病を聞かされました。

 長くて一年、早ければ、あと三ヶ月の命。残酷な、耳を塞ぎたくなるような現実でした。

 しかし、僕と母はとにかく少しの望みでもあるのなら全力を尽くしてみよう、絶対に涙は見せまいと誓ったのです。僕達には、神というものがあるはずなのですから。

 三月のあの日、あなたは手術台の上にいました。田舎のこと、手術、即重病というイメージに手術前の病室は、あなたを慕う人達で溢れていました。

 実際には、僅か数時間の手術でしたが、僕には、とてもとても長く感じられました。やがて、手術室から出てきたあなたは、麻酔が良く効いているのか静かに眠っていました。でも……僕はそこに、なぜかあなたの死に顔を見てしまったのです。心のなかで否定しても、どんなに強く否定しても、拭い去れない不吉な予感でした。

 手術後の経過も良く、春休みの終わりを待って神戸に帰った僕ですが、友人にあなたの事を聞かれても、大丈夫だとしか答えられませんでした。

どうして言えるでしょうか、あと三ヶ月というあなたの残り陽(び)を。

 無事退院の知らせを聞いて、喜んで帰ったのは五月の連休でした。

 風邪を引いたと言って咳き込んでいましたね。少し動く度にじっと座り込み、『こんなになったら、つまらんのう』と、寂しそうに語りかけてくれました。

 十一の時、信仰によって奇跡の生を得て以来、今日まで病気というものを何一つ知らず、頑丈で優しく、誰からも慕われていたあなたがなぜと、僕はまた、神様に不足してしまいました。

 家族の反対を押し切って、駅まで車で送ってくれましたね。

『元気でな、身体に気をつけろよ』と、反対に僕のほうがいたわられて、これなら大丈夫と信じ、神戸に戻ったのです。でも、それが最後に聞いたあなたの声でした。

 その後、電話で母から、あなたの身体が随分弱っている。階段さえ満足に上れないと聞いても、たかが風邪、病後で抵抗力が弱っているだけだと、僕は高をくくっていました。

 優しい言葉をかけてあげられなくてすいませんでした。僕はあなたに気弱になって欲しくなかったのです。

 そして、遂に叔父からあなたの危篤を知らされました。深夜の事とて、帰ろうにも帰る手段がなく、一睡もせずに不安な一夜を明かした訳ですが、朝早く電話をしてみると、落ち着いたとのことで卑怯な僕は、なぜあの時に帰らなかったのかと一生後悔することになろうとも知らず、目先の生活だけに囚(とら)われ、またずるずると神戸に居座りました。

[チチキトク、スグカエレ。ハハ]

 まるでテレビのドラマとそっくりの電報を受け取り、病院に駆け付けた時、あなたはもう口が利けませんでした。

 どんなに苦しかったでしょう、気管を切開して人工呼吸器で生かされることが。朦朧とした意識の中だったのでしょうが、僕を見て、うん、うんと頷き、差し伸べてくれた手の温かさを決して忘れません。

 あんなに太く、逞しく、僕達を抱き上げてくれたあなたの腕は、枯れた枝のように痩せ衰えて、涙をこらえるだけが精一杯の僕でした。それから、約一週間、病状は僅かながら回復の兆しを示し、医師からも希望のある言葉を貰いました。授業もあるし、家庭教師もこれ以上休めないギリギリの状況でしたので、一旦神戸に帰ることを決めました。

 でも、その日の朝早く、僕は病院からの電話であなたの死を知りました。

 ワーンという耳鳴りだけが現実で、ドラマでも見ているような、他人事のような、そんな申し訳のない次第でした。人は、五十で死のうが、百まで生きようが、その長さだけで人生の重みを推し量れるはずはありません。しかし、残していく家族と教会の事を思えば、どんなに悔しく、どんなに心残りだったことでしょう。

 あなたの出直し(死)のおかげで、僕は随分歳を取ったような気がします

 物事の本質を考える機会もたくさん与えていただきました。

 生意気なようですが、本当のたすかりとはただ病気が治ることではなく、心が澄み切りなんでもがありがたいと喜べるようになること。たとえ身体を神様にお返ししても、その志を受継ぐ誰かの胸に生きることだと、やっと悟れるようになりました。

 あなたほどの生き方はできないかも知れない。でも、僕はあなたの通れなかった道を精一杯生きていきます。どうか見守っていて下さい。さよなら、お父さん。」

 終(つい)ぞ実現し得なかったが、いつかは息子と酒でも酌み交わしながら、男同士の会話をしたかったに違いないと思うのである。

 その父への感傷に決別し心の整理をするために出す宛ての無い手紙をしたため、しっかりしなければと自分を奮い立たせた。

 しかし、父の葬儀を済ませ神戸に戻った私を待ち構えていたのは、厳しい現実だった。

 心配していた通り、家庭教師の解雇を伝える電話があったと寮の管理人が伝えてくれた。

「親の葬式に帰ったぐらいで、クビやて。そんな薄情な話あるか!なんや、あのくそババアは。行って、塩を撒いたれ」

 元組員と噂されていた情に厚い管理人は同情して腹を立てていたが、私は微かな希望を抱いて何度もお詫びの電話を入れていただけにショックだった。

 さらに悪いことには、もう一つのアルバイトも「あんたには、気の毒やけど、この不景気やろ……」と、店主に断られ、父の出直しによって家からの仕送りも跡絶えた私には、大学中退以外の途はもはや残されていなかった。

(そういうことか、世間は冷たいもんだなあ)と、自暴自棄になりかけた私を思い止まらせたのは、母からの電話だった。

 父の死後、母の苦労は計り知れない。

 まだ棟さえも上がっていない神殿普請、ショックで急に老いた祖父、巨額の借金、相談したくても父は出直し、一筋の光明すら見えない暗闇で、母は一生懸命踏ん張っていた。そんな時、たとえば思い余って実家の親を頼ったとしても、誰にも非難されることはないと思う。親には、ただ教祖(おやさま)のひながただけを目標に、道を歩んできた揺るぎない自信があった。その親に、私の事も話したのであろう。

「岡山のおばあちゃんからの伝言があるから必ず実行するように」と、母は言った。

「『たとえ、どんなに冷たい仕打ちをされてもな、今までお世話になったのは事実じゃろう。こっちから切ったらいかんで。頭を下げてつないだら、神様がちゃあんとつないで下さるからな。家庭教師先へすぐお礼に行け』と、おばあちゃんが言うとったよ」

私はしばらく無言でいた。が、大好きなおばあちゃんがそう言ったなら仕方ない。翌日、言われたとおり解雇された家庭教師先に挨拶に伺うと、玄関の扉さえも開けてくれず、仕方が無いのでドアに向かって「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。お世話になりました」と、お詫びとお礼を申上げ、地下鉄に通じる長い坂道を下った。


 親 心


 それからしばらく経った夏のある夕方、応援団の顧問である西村教授から電話で馴染みの小料理屋に呼び出された。

 私はそれまでに一度もこの先生から電話を貰ったことは無かった。

 何の用だろうと訝(いぶか)りながら店の暖簾(のれん)をくぐると、既に教授は来ており三畳ほどの小上がりに座って徳利を傾けていた。目ざとく私を見つけた先生は、女将にビールを頼み、「まあ一杯やれや」と座るよう促した。

「早速やけど……」と続けられた先生の言葉を、私は一生忘れないだろう。

 父の病気に対しての諸事情から既に退団届けは出していたにもかかわらず、団員の一人が父親を亡くし、家庭教師もクビになって困っているから助けてやって欲しいと、誰かが懇願しに来たと言われるのである。しかし、いくら大学の教授で顔が広いとはいっても時期が悪い。先生は一応引き受けられたが、正直言って無理だと思われた。

 ところが、その日の帰り、ここで偶然出会った友人から家庭教師を紹介して欲しいと依頼されたというのである。

 しかも、先生は大学に頼んでおいたからと、後期の授業料免除も申請するようにと言われた。

有難さが、身に染みた。

 その後私は、西村先生のご紹介による新しい家庭教師先で、高校生の姉の方も教えて欲しいと頼まれた。また、父親が勤めていた会社の上司が、私の窮状をどこからか聞きつけ、奨学金の世話取りをして下さった。更に大学の授業料も、留年しない限りは、半年に一度の申請と面接により全額免除されることになった。

たった一度、心を低くしてつないだだけでこれほどの「つなぎの御守護」を見せて頂けるとは、まったく予想もしていなかった。

 確かに切り言葉、切り口上はスカッとして、その時だけは気持ち良い。

だが、自分の運命までをも切ってしまうことに気づく人は少ない。

 父親を失い落胆する可愛い孫に、つなぐ心の大切さを「むごい言葉」で実行させた祖母の凄みと優しさを今、思う。

 その祖母も、床に伏す日が多くなり、自分の逝く日が間近に迫っていることを悟ると、枕許に見舞う人々夫々に、まるで遺言のような最後の仕込みを説いた。

 やがて六月のある日、祖母は先に逝った夫や子供達の命日を順々に挙げていき、最後に「今日は、私の日じゃ」と告げ、その日のうちに穏やかに出直したという。

あれから二十数年が経ち、私は明るい陽光に包まれた大学のキャンパスにいた。

 そして、久しぶりに会った親しい友人、先輩達にどうしても知りたかった長年の疑問を打ち明け、真相を尋ねてみた。

しかし、誰もが「そんなことがあったのか、知らなかった」と首を振るばかりだった。

 私は、妻と娘と共に記念撮影の列に加わり、春霞の海を眺めた。

その時、不意に、教会長として初めて信者宅の葬儀をつとめさせていただいた時の記憶が鮮明に蘇った。

 本部の秋季大祭直前で斎員が揃わず、私は困っていたのだ。

「本当は忙しゅうて、どうにも都合がつかんかったんじゃけど、あんたのお父さんが夢に出てきてなあ……。わしに『頼む』言うて、手を合わすんじゃ」

 葬儀の後、父の友人だった親教会の役員先生がしんみりと言われた。

 もしかすると……。

 お父さん、あなただったのでしょうか。私の胸にぐっと熱いものが込み上げて来た。

「お父さんのために、お前の夢を諦めさせて、可哀想(かわいそう)でなあ。神様にお願いしたんじゃ」

 父からの返信は、そう語っているように思えた。


養徳社『陽気』平成16年5月号「日々の暮らしのなかで」掲載 

神戸大学応援団総部45周年記念誌「絆」に著者加筆後、転載。

陽だまり語録

あってもなくてもいいけど、あったらいいな、という食後のお茶かコーヒーみたいなエッセイです。「陽気」誌連載(2008.9~2020.12) ペンネーム: ビエン.J.K

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