父への手紙 2020・秋

  新湊

 懐かしい新湊ーー隆起した大地の背骨が海まで走り抜けたような、ごつごつとした雪の山稜から一筋の光芒が北の海を照らし出すと、水平線を乗り越えて海の男達が帰ってくる。白い息、長靴姿のおかみさん達が、魚市場を背にして海を眺める二人の青年の傍らを、夫の船へと駆け抜けて行った。まるで異国の言葉に聞こえる方言で、毎年漁獲量は減るばかりだと男達は顔を曇らすが、電動ウィンチで吊り上げられた蟹がコンクリートの床に並べられると、市場は俄かに活気を帯びてくる。

「山ひっツァのダラアンマ、いつ帰って来たんがちゃ」

 船から上がったばかりの漁師の一人が、宮田に向かって呼び掛けた。宮田は、神戸に居る時とは別人のようないきいきとした表情で「ダラ~」と、短く小さく言い返すと、雅夫には到底理解できない早口で喋った。

「おい、おい、何語や」と、言葉の継ぎ目を見計らって雅夫が突っ込んだ。

「まあ、ええやんか」

 宮田は、銀ブチメガネのブリッジを押し上げながら、照れ臭そうに関西弁で翻訳した。

「やまひっツァは、中卸の『山七屋』、ダラはアホ、アンマは長男や」

「すると、山七屋の阿呆息子、いう意味か」

「まあ、もうちょっと温もりのあるニュアンスやけどな。ところで、掃除が済んだら『ひろまっちゃ』へ来い言うとったから、お前も行くか」

「うへえ、あのおばちゃんのラーメン屋か。また、叱られに行くようなもんやな」

 雅夫は、初めて訪れた遠来の客に、ズケズケとものを言う陽気でしっかり者の女将を思い出した。

 宮田の伯母が経営する「広松屋」には、余り御利益のなさそうな観光名所のお札や鈴、あるいは提灯、通行手形等のお土産物が所狭しと飾られ、漁を終えたばかりの男達で賑わっていた。

 ーー陸に上がり『ひろまっちゃ』で一杯飲んで、ラーメンを食う。

 歯にきぬ着せぬ毒舌おばちゃんのどこが良いのか、男達はつかの間の喜びを心から味わっているようだった。

 客の注文を手際良くこなしながら、おばちゃんは宮田に「大学で経済たらいう難しい勉強をしとるらしいが、帰ったら山七屋を継ぐのか」というような意味の言葉で訊いた。

「うんまあな」と、言葉を濁しながら笑う宮田の微妙な表情の変化を雅夫は見逃さなかった。(こいつにもいろいろあるんだな)と思い、黙って聞いていると、おばちゃんは仕事の手を休めてこちらを向き、

「ネネみたいな顔をして、あんたもスネかじりか」と、いきなり訊いてきた。

「ええ、まあ……」

 初対面の相手に失礼なことをいうおばはんやなと、内心ではムっとしたが、雅夫は曖昧に笑いながら答えた。宮田の家に泊まるんなら、泊まり賃稼いで行けと、市場にある山七屋の手伝いを命じたのもこの女将だった。

「おいおい、話がちゃうで」と、言いながらも雅夫は、いつの間にか『ひろまっちゃ』のあったかい空気に心地好く染まっていった。

 大学のクラブで計画したスキーツアーの先発幹事として現地で受入れの準備をする前に実家のある富山へ寄って行かないかと誘ったのは宮田からだった。雅夫は、後期の試験に好成績が残せた心のゆとりと、幹事で行けば全ての費用が“タダ”という魅力に引き付けられ、二つ返事で承知したものの、

 ーー結局、『九十年祭』に一度も参拝しなかった。

 という両親に対する引け目が、心に暗い影を落としていた。雅夫は教会の長男として生まれ、いずれは教会を継ぐものと、皆に期待されている。八十歳を越える初代会長の祖父は、まだまだ意気軒昂で、雅夫が大学を出るまではと、会社勤めをする雅夫の父、満之(みちゆき)に会長を譲ろうとはしない。

(俺は俺、自分の思う道を歩みたい)

 青年なら誰しも思うはかない夢を雅夫も抱いていた。親父が二代の理を受ける。俺は就職して、父がそうであったように教会の経済的サポートを受持ち、定年になった時に跡を継げば良いではないか。それまでは、自由にさせて欲しい。そんな考えが、親の思う道から少しずつ離れようとしている自分を都合良く正当化していた。

(宮田も俺と一緒か)と思うと、雅夫はちょっと安心したような、妙な気持ちになった。

「ところで、あのスキー靴、ほんまに大丈夫か?」

 魚の入っていた発砲スチロールの箱を片付けながら、宮田が怪訝な顔つきで尋ねた。

「“怨念のスキー靴”やろ……。そんなこと気にしとったら、何もでけへんで」と、雅夫は、わざと快活に答えた。

 雅夫のスキー靴は、持ち主が次々に怪我をする“いわく付き”で、前の持ち主が気味悪がって捨てようとしたところを無理に頼んで貰った物だった。

「この世に、化け物も憑き物もないんやで。もしあったとしたら、それは人間の心の持ち方や弱さによって見える現象や。心配ないわ」

「お前、見かけによらず結構味のあることを知っとるなあ」

「どういう意味じゃ、そりゃ……。それより、朝の四時にたたき起こされて腹ペコや。はよ飯、食いに行こう」 

 雅夫は、ラーメンを食べる真似をするとダウンジャケットのファスナーを首まで上げ、丁寧に掃除する宮田を急かした。


  心定め


 雪国の男は、寡黙だが奥が深い。民宿の主人とにごり酒を酌み交わしながら、大いに語り、雅夫は充実した時を過ごした。翌朝、やや飲み過ぎの濁り目で、あのスキー靴を履きかけた雅夫は、村内放送から流れる自分の名前に耳を疑った。

 風景は、心の襞の陰影により、時として色彩を失って見えることがある。あるいは、逆にモノクロームの映像が明暗の微妙な対比によって鮮やかに輝くこともある。

 なぜ居場所を突き止められたのかと訝りながら家に電話をかけた瞬間から、雅夫には眼に映る全ての風景が色彩を失い、くすんで見え始めた。

「どこ、ほっついとったんで!」

 いきなり母に叱られた。母は随分苦労して雅夫の居所を捜したらしく、宮田の両親にもかなり迷惑をかけたと散々愚痴った後、有無を言わせない口調で

「お父さんが、入院するから、すぐ帰りなさい」と、言った。

「いつ?」

「それで、どこが悪いん?」

 受話器の向こうで少し間があった。父が近くに居るらしい。胸騒ぎがした。

「検査で、胃に潰瘍が見つかったんよ。明日病院へ入院するから、できるだけ早う帰って来て」

「分かった。すぐ帰る」

 雅夫は、受話器を戻すと民宿の女将に礼を言い、暗い気持ちでスタッフの居る部屋に向かった。

 新幹線の車内放送が鼻にかけた女の声で、岡山への到着を告げた。改札を通り抜け、連絡コンコースから跨線橋の階段を降り、在来線に乗り換えると、懐かしい岡山の言葉で車内は満たされる。

 故郷の山、故郷の空、倉敷を過ぎ、高梁川の鉄橋を越えると、車窓に優しい風景が現われ、駅で迎えてくれるであろう父の顔を想う。

 ーーだが、その父が手術をするという。

 快速電車を降りた駅のホームには冷たい風が吹いていた。

 十一の時、無い命を初代の白熱的信仰によって教祖に救けて頂いて以来、風邪一つ引いたことのない頑健な父だった。あんな、好い人はいないと誰からも愛された父だった。

 その父がどうして……。

 雅夫は、ダウンジャケットの襟を立てると人目を忍ぶように、どうぞ何かの間違いであって欲しいと、震える手を合わせた。

 家に帰ると、父は教会の事務所で祖父や役員と煉炭火鉢を囲み、神殿普請の相談をしていた。三畳程の広さしかない事務所には図面や普請の書類が散乱し、火鉢に掛けられたやかんの蓋が湯気でカタカタ動いていた。

(思ったより元気そうだ)

 そう安心したら、肩透かしをくわされたみたいで、雅夫は腹が立ってきた。

「お父さん、入院するんじゃなかったん」と、つい責めるような口調になってしまった。

「ちょっと胃が悪うてな、明日、入院するんじゃ」

 父は、明るく装いながら答えた。

「手術する言うから、特急と新幹線を乗り継いで帰ってきたのに、なんか損したみたいじゃなあ」と、雅夫は軽く批難しながら腰を下ろした。

「お母さんに、電話なんかするな言うたんじゃけどな。それより、お前こそ、親に内緒でどこへ逃げとったんじゃ」と、雲行きが怪しくなってきたので、雅夫は慌てて役員達に挨拶し、苦いお茶を出してくれようとしていた祖父に断りを言って事務所から逃げ出した。

 その晩、雅夫が夕勤めを済ませ風呂に入ろうと支度をしていると、母からこっそりと手紙を渡された。

ーー読んだら破って捨てるように、お父さんには絶対に見せないで。と、母は言った。

 もしかして……

 雅夫は心に起きた波紋の大きさを感じながら震える手で、分厚い封筒を開いた。

 大袈裟に言えば、その時から雅夫の人生は百八十度の転換を強いられた。あるいは、むしろ本来通るべき真実の道へと、大きな「をやの心」によって軌道を修正して頂いたと言うべきだろうか。

 父は、胃癌だった。しかも余命半年足らずと医者から宣告されている事実も知らず、簡単な胃潰瘍の手術だと信じていた。だが、祖父は「神殿の移転建築に見せて頂いた結構な節じゃ。皆が勇んでかかれば神さんが働いてくれる」と、頑なに父の手術を拒否した。

 ひたすらたすけ一条の道を歩み、一徹な信仰的信念を持つ初代会長と手術を望む父、二人の間に立ち、母は独りで大きな苦悩を背負っていたようだった。

『この節に、お父さんの手術に対して雅夫も何か大きな心を定めなさい』と、手紙は締めくくられていた。

 達筆なくずし書きで、そうでなくても読みにくい母の手紙には、所々涙で濡れたような跡があり、雅夫は知らなかったとは言え、信州の山中で遊びに現を抜かしていた自分をひどく恥じた。読み終えた手紙をそっと鞄にしまうと、父親に何事かと悟られないよう、まず風呂を済ませることにした。

(それからゆっくり考えれば良い、焦ることはない。)

 雅夫は、動揺する自分に言い聞かせた。

 翌日、父は独りで全ての手続きを済ませ、県内でも屈指の倉敷C病院へ入院した。神殿の移転建築に対して他人事のように考え、今一つ勇み心に欠けていた一部の役員、よふぼくも、教会後継者の入院、手術という大きな節を通して一手一つに心を合わせ、普請は順調に進み始めた。

 普請委員会の会議が毎日のように開かれ、時によっては深夜まで真剣な練り合いが続けられた。まさに「節から芽が出る」のお言葉通り、教会は神殿普請に勇み立った。

 そして、迎えた父の手術も成功し、

(満之さんは必ず御守護頂ける)と、誰もが信じていた。

 実際、父は手術後の経過も良く、

「連休迄には退院できるでしょう」と、担当医は事務的に告げた。

 だが、退院の遅速をのみ取り上げて楽観すべきではない。父の身上は深く静かに進行しているらしく、医師の言葉の裏には、もはやこれ以上の治療は施しようがないという医師としての良心的無力感が嗅ぎ取られた。

 雅夫は、毎日普請のひのきしんの合間を縫い、運転免許を取ったばかりの車で父に付き添っている母のために、教会と病院を往復した。ゆっくりと考える時間もなく、毎日が単調なリズムの繰り返しの中に過ぎて行った。ただ、雅夫は一刻も早く神戸に戻りたかった。父親の病気看病のためしばらく休ませて欲しいと頼んだのに、家庭教師先の母親の態度が妙によそよそしいのだ。

 父は永年勤めた会社を辞め、道一条を通る決意をした。教会は神殿建築に着手したばかりである。サラリーマンとしての定期的収入を失った父からの仕送りは、もはや期待できない。今後大学へ通うための資金計画を苦慮しているところへ現在の家庭教師収入さえも失うという事態になれば、通学は絶望的である。

 恋愛、友との相剋、人間関係の軋轢、そんな、雅夫がかつて苦しんた青春の悩みは全て恵まれた者達の特権だったのだ。 

「浅瀬の足掻きか……」

 教会の書棚から、偶然手にした本に見つけた言葉は、家族の期待に応え、優等生を演じつつ、功利的にしかも要領良く人生を歩んできた男に対する実に痛快な皮肉であった。 

 今、雅夫は大きな岐路に立たされていた。雅夫の夢は、大学で国際経済の勉強をし、国際貢献のできる道へ進む事だ。そのために一年間、全ての楽しみを犠牲にし、血の出るような努力の末、掴んだ夢への第一歩だった。だが、もういい。

 ーー大学を出たらすぐ、道一条を通らせて頂く。

 これが、雅夫の「大きな心定め」だった。中学の頃から抱いていた夢を、もう少しで実現できるという時に、自らの意志で捨てることは身を切られるように辛い。しかし、子として父のためにできる精一杯の心定めは、夢をお供えすることしかなかったのである。


  父への手紙

                   

 お父さん、あなたのために雪の野沢から、特急に乗り継ぎ帰った日、あなたは寂しそうな笑顔を浮かべ、

「たいしたことねえんじゃ。ちょっと胃が悪うてな」と、大きな手で僕を安心させてくれました。でもその晩、僕は母からあなたの本当の病を聞かされました。

 長くて一年、早ければ、あと三ヶ月の命。残酷な、耳を塞ぎたくなるような現実でした。しかし、僕と母はとにかく少しの望みでもあるのなら全力を尽くしてみよう、絶対に涙は見せまいと誓ったのです。僕達には、神というものがあるはずなのですから。

 三月のあの日、あなたは手術台の上にいました。田舎のこと、手術、即重病というイメージに手術前の病室は、あなたを慕う人達で溢れていました。実際には、僅か数時間の手術でしたが、僕には、とてもとても長く感じられました。やがて、手術室から出てきたあなたは、麻酔が良く効いているのか、静かに眠っていました。

 でも……僕はそこに、なぜかあなたの死に顔を見てしまったのです。

 心のなかで否定しても、どんなに強く否定しても、拭い去れない不吉な予感でした。

 手術後の経過も良く、春休みの終わりを待って神戸に帰った僕ですが、友人にあなたの事を聞かれると、「大丈夫」とか「いいんだ」、としか言えませんでした。宮田や仲根に対してさえも言えませんでした、あと三ヶ月というあなたの残り陽(のこりび)を。

 無事退院の知らせを聞いて、喜んで帰ったのは連休明けの土曜日でした。風邪をひいたと言って咳き込んでいましたね。少し動く度にじっと座り込み、

「こんなになったら、つまらんのう」と、寂しそうに語りかけてくれました。

 十一の時、奇跡の生を得て、今日まで病気というものを何一つ知らず、頑丈で優しかったあなたがなぜと、僕はまた、神様に不足してしまいました。

 家族の反対を押して、駅まで車で送ってくれましたね。

「元気でな、身体に気をつけろよ」と、反対に僕のほうがいたわられて、これなら大丈夫と信じ、神戸に戻ったのです。でも、それが最後に聞いたあなたの声でした。

 その後、電話で母から、あなたの身体が随分弱っている。階段さえ満足に上れないと聞いても、たかが風邪、病後で抵抗力が弱っているだけだと、僕は高をくくっていました。

 優しい言葉をかけて上げられなくてすいませんでした。僕はあなたに気弱になって欲しくなかったのです。

 そして、遂に叔父からあなたの危篤を知らされました。深夜の事とて、帰ろうにも帰る手段がなく、一睡もせずに不安な一夜を明かした訳ですが、朝早く電話をしてみると、落ち着いたとのことで卑怯な僕は、なぜあの時に帰らなかったのかと、一生後悔することになろうとも知らず、目先の生活だけに囚われ、またずるずると神戸に居座りました。

[チチキトク、スグカエレ。ハハ]

 まるでテレビのドラマとそっくりの電報を受け取り、病院に駆け付けた時、あなたはもう口が利けませんでした。どんなに苦しかったでしょう、気管を切開して人工呼吸器で生かされることが。朦朧とした意識の中だったのでしょうが、僕を見て、うん、うんと頷き、差し伸べてくれた手の温かさを決して忘れません。

 あんなに太く、逞しく、僕達を抱き上げてくれたあなたの腕は、枯れた枝のように痩せ衰えて、涙をこらえるだけが精一杯の僕でした。

 それから、約一週間、病状は僅かながら回復の兆しを示し、医師からも希望のある言葉を貰いました。授業もあるし、家庭教師もこれ以上休めないギリギリの状況でしたので、一旦、神戸に帰ることを決めました。

 でも、その日の朝早く、僕は病院からの電話であなたの死を知りました。

 ワーンという耳鳴りだけが現実で、ドラマでも見ているような、他人事のような、そんな申し訳のない次第でした。

 人は、五十で死のうが、百まで生きようが、その長さだけで人生の重みを推し量れるはずはありません。しかし、残していく家族と教会の事を思えば、どんなに悔しく、どんなに心残りだったことでしょう。あなたの出直しのおかげで、僕は随分歳を取ったような気がします。物事の本質を考える機会もたくさん与えていただきました。

 生意気なようですが、「本当のたすかり」とは、ただ病気が治ることではなく、心が澄み切り、なんでもがありがたいと喜べるようになること。たとえ身上をお返ししても、その「志」を受継ぐ誰かの胸に生きることだと、やっと悟れるようになりました。

 あなたほどの生き方はできないかも知れない。でも、僕はあなたの通れなかった道を精一杯生きていきます。どうか見守っていて下さい。さよなら、お父さん。


 終ぞ実現し得なかったが、いつかは息子と酒でも酌み交わしながら、男同士の会話をしたかったに違いないと思う。その父への感傷に決別し心の整理をするために出す宛ての無い手紙をしたため、しっかりしなければと自分を奮い立たせた。

 しかし、父の葬儀を済ませ、神戸に帰った雅夫を迎えてくれたのは、厳しい現実だった。雅夫の予想していた通り、家庭教師の解雇を伝える電話があったと寮の管理人が伝えてくれた。

「そんな阿呆な話あるか!なんや、あのくそババアは。行って、塩を撒いたれ」

 元組員だったと噂される情に厚い管理人は、雅夫に同情して腹を立てていたが、雅夫は微かな希望を抱いて何度もお詫びの電話を入れていただけにショックだった。さらに悪いことには、もう一つのアルバイトも、

「あんたには、気の毒やけど、この不景気やろ……」と、店主に断わられ、家からの仕送りも跡絶えた雅夫には、中退以外の途はもはや残されていなかった。

(そういうことか、世間は冷たいもんやなあ)と、自暴自棄になりかけた雅夫を思い止まらせたのは、母からの電話だった。

 父の死後、母の苦労は計り知れない。まだ棟さえも上がっていない神殿普請、ショックで急に老いた初代、巨額の借金、相談したくても父は出直し、一筋の光明すら見えない暗闇で母は、一生懸命踏ん張っていた。そんな時、たとえば思い余って実家の親を頼ったとしても、誰にも非難されることはないと思う。親には揺るぎない自信がある。ただ教祖のひながたを目標に、歩んできた道がある。その親に、雅夫の事も話したのであろう。

「岡山のおばあちゃんからの伝言があるから必ず実行するように」と、母は言った。

「たとえ、どんなに冷たい仕打ちをされてもな、今までお世話になったのは、事実じゃろう。こっちから切ったらいかんで。頭を下げてつないだら、神様がちゃんとつないで下さるからな、おばあちゃんは家庭教師先へすぐお礼に行けと言うとったで」

 雅夫は即答できず、しばらく無言でいた。が、大好きなおばあちゃんがそう言ったなら仕方ない。

「分かった。明日必ず行く」と、渋々承諾した。

 翌日、言われた通りにのこのこ訪問すると案の定、ドアも開けて貰えず門前払いだった。仕方なしに雅夫は、玄関のドアに向かい、

「御迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。お世話になりました」と、お礼とお詫びを申し上げ、地下鉄の駅に通じる長い坂道を下った。

 寮に帰ると、宮田と仲根が飲みに行こうと誘ってくれた。国鉄六甲道駅の近くにある雑居ビル二階の小さなスナックで、雅夫は宮田達に、父の病名を隠し続けた不実を詫び、 

「大学をやめるかも分からん」と、告げた。

 ビートルズが大好きだったマスターは、早めに店を閉め、雅夫のためにギターを弾いてくれた。歌いながら、急速に酔いが回る頭の中で、幼い頃の父との想い出がふいに蘇り、雅夫は父の出直し後、初めて泣いた。

  

  親心


 驟雨は、既に立ち去り、水滴を光らせた木々の緑が目に染みた。雅夫が住む個人経営の学生寮は、阪急六甲駅から少し登った六甲山の中腹に建っている。窓から遠くへ目を遣ると、外国航路の船が行きかう遥か彼方に、泉南の山々がくっきり浮かび、大阪湾がまるで大きな湖のように見える。雅夫は、首の後ろで手を組み、椅子の背に凭れながら「見納めかもしれんな」と、独白した。しばらくぼんやりと眺めた後、身体の向きを変え、机の引き出しから父への手紙を取り出し、もう一度読み直してみた。自らの気持ちを整理するためにしたためた手紙だった。

(でも、センチはもうこれで終わりや)雅夫はそっとノートを閉じ、きっぱりと決心した。

 その時、寮の館内放送が雅夫を呼び出した。電話は応援団顧問の西浦教授からだった。雅夫は、今までに一度も西浦教授から電話を貰ったことがない。

(何の用だろう?)と、訝りながら受話器を握ると、

「おう、忙しいときにすまんの。ところで今晩ひまか?」と、いきなり尋ねられた。

「はあ、まあ」と、用心しながら雅夫が答えると、教授は意外なことを口にした。

「ちょっと、話しがあるんやけど、七時に神社の下の『久乃』へ来てくれんか。まあ、無理にとは言わんけどな……」

 久乃は、教授が良く行く小料理屋だという事ぐらいは雅夫も知っている。だが、実際に店の暖簾をくぐったことはない。

(家庭教師も首になって、暇だしな)

「七時ですね……はい、必ず伺います」

 雅夫は、余り深く考えないことにした。寮から久乃までは歩いて二十分ほどの距離がある。歩道の水溜まりをひょいひょいと避けながら、坂道を下って行くと洋館建ての六甲会館が見えてくる。この辺りは、十月になればキンモクセイの芳香で溢れんばかりになるのだ。

 やがて、阪急六甲駅の踏切りを渡り、少し歩くと、大きな楠や樫などの樹々に囲まれた神社がある。雨上がりの神社の境内は、凛として、清浄な空気が素肌に心地よかった。目指す久乃は鳥居の脇にひっそりと店を構えていた。店の暖簾をくぐると、既に教授は来ており三畳ほどの小座敷に座って、徳利を傾けていた。雅夫を目ざとく見つけた教授は、

「僕は、夏でもこれや。君、めしはまだやろ。まあ座れや」と、徳利を持ち上げ、カウンターの内側にいる小粋な女将に、

「なんかこの男前に食べるもんを作ってやってくれへんか。それから、ビールとお銚子もう二本追加や」と、注文した。

「早速やけど」と、続けられた先生の言葉を、雅夫は一生忘れないだろう。雅夫が座るのを待って教授は言った。

「僕の知人が家庭教師を捜しとんのやけど、君、引き受けてくれへんか」

 雅夫は、自分の耳を疑った。

「条件は、先方さんと直接話したらエエ。よう出来る子やけど、お父さん亡くして困っとんのや言うて頼んどいたから、まあ悪いようにはせんやろ。せやけど、よう出来るかどうかは、ほんまのところ、知らんけどな」と、教授は茶目っ気たっぷりにウィンクして見せた。

(まさか、俺なんかを教授が直々に推薦してくれるはずがない。なぜ?)と、返事をためらっていると

「いやか?」と、意外そうな顔で教授が、聞いた。

「いいえ、とんでもありません。有難くお受け致します」

 雅夫は慌てて答えた。

「でも、先生……」

「なんや」

「いったい誰からお聞きになったのですか?」と、雅夫は慎重に尋ねた。

「ある団員や。名前を伏せといてくれと頼まれとってな……。せやけど、あいつ目茶苦茶な男やなあ。僕の部屋に入ってくるなり、『先生、どっか家庭教師の口ないですか』やろ。『そんなんいきなり言うてもあるか』言うたら、『先生、顔が広いんですから、家庭教師の一つや二つ、どこでもあるでしょう。うちの団員が難儀しとるんですわ』と、拝み倒されてなあ」

 雅夫は、うちの団員という言葉を聞いて、目頭が熱くなった。生活のため退団届は三月末に提出しており、雅夫は、既に団員ではない。その雅夫の為に、無理を承知で西浦先生に家庭教師の斡旋を頼んでいてくれたとは……。

「一応は、引き受けたけど、時期が悪いわ。なんぼ教授や言うたかて、業者とちゃうで。せやから、実のところ、まあ、あかんやろと思うてたんや。せやけど、ほんまに不思議なこともあるもんやなあ。その日の帰りに、ここへ寄ったんや。そしたら、久しぶりに友達と会うてな、『お前んとこに、誰かええ家庭教師おらんか』やろ、びっくりしたわ」

 雅夫は、正座したままじっと話を聞いていた。教授は、女将から受け取ったビールを雅夫のコップに注ぎながら付け加えた。

「おう、そうや、忘れとった。授業料の減免申請もな、学生課の方へ頼んどいたから、明日、学校へ行って手続きせえよ。たぶん、来期から全額免除になるはずや……」

 教授が最後まで言い切らないうちに、雅夫の視界は急速にぼやけ、店の風景や教授の顔が歪んで見えた。

「あら、あら、先生。学生さん泣かしたらあかんやないの」という女将の言葉だけが、心地好く耳に響いていた。


 あれから一年の月日が経った。教会の普請は、役員、信者の真実と親戚の心強い応援を得て、遅々とした歩みではあるが確実に形の普請の完成へと進んでいる。雅夫は、西浦教授の紹介による新しい家庭教師先での誠実な態度を気に入られ、高校生の姉の方も教えて欲しいと頼まれた。また、父親が勤めていた会社の上司が、雅夫の窮状をどこからか聞きつけ、奨学金の世話取りをしてくれた。授業料も、留年しない限りは、半年に一度の申請と面接により全額免除されることになった。

 たった一度、心を低くしてつないだだけでこれほどのつなぎの御守護を見せて頂けるとは、雅夫は予想だにしていなかった。切り言葉、切り口上はスカッとして、確かにその時だけは気持ち良い。だが、自分の運命までもを切ってしまうことに人は、なかなか気付かない。父親を失い落胆する可愛い孫に、つなぐ心の大切さを「むごいことば」で実行させた祖母の凄みと優しさを今、思う。

 その祖母も、床に伏す日が多くなり、自分の出直す日が間近に迫っていることを悟ると、枕許に見舞う人々、夫々に、まるで遺言のような仕込みを伝えていった。やがて……六月のある日、祖母は、先に逝った夫や子達の出直し日を順々に挙げていき、

「今日は、私の出直す日じゃ」

と、最後に告げ、その日のうちに穏やかに出直したという。


 返信


「大学で、応援団の四十周年記念式典があるから、お前も来ないか。同期の連中も会いたがっている」と、親しい友人から誘いの電話があった時、雅夫は即答できなかった。開催日は、ちょうど妻と娘を伴い教会本部に参拝する日だったが、夕方までに到着すれば間に合う用事であり、その道中にある大学での行事参加を逡巡する理由はどこにも見当らなかった。しかし、時にかたくなな雅夫の性格は、素直に友人の好意を受け入れられずにいた。一度やめた団の行事に、未練がましくのこのこ出かけていけるもんか。やっぱり断ろうと、電話に伸ばしかけた雅夫の手を止めたのは、

(誰が、助けてくれたのか?)

という長年の疑問だった。

雅夫に引け目を感じさせないためにわざと口裏を合わせているのだろうか。だが、それは不自然だ。たった一人の中途退団者のために、大勢の人々が二十数年も隠し続ける意味が無い。直接、家庭教師先を紹介して下さった恩師である西浦教授も、ついに「誰か」を教えて下さらないまま他界され、真実を確かめる術は限られている。青春の一時期を共有した大勢の人たちが一堂に会するこのチャンスを逃せば、永遠に分からないままだろう。自分のつまらぬこだわりなど、どうでもいい。

ーー父を亡くし、アルバイトも全てクビになり、大学中退を余儀なくされた自分のことを、一体誰が助けてくれたのだろうか?雅夫は、どうしても知りたかったのである。


爽やかな風が吹く四月の下旬、雅夫たちは、明るい陽光に包まれた大学のキャンパスにいた。久しぶりに訪れた大学正面の石段には懐かしい顔が並び、和やかに談笑しつつ記念撮影を待っていた。数百人はいるであろう人々の中には、各界で活躍する著名人の姿も混じり記念の行事を一層華やかなものにしていた。

卒業後二十数年の隔たりも、「よお!久しぶり」の挨拶だけで、まるで昨日別れたかのように、お互いが時計の針をあの頃に戻していた。雅夫は、親しい友人、先輩達にどうしても知りたかった長年の疑問を打ち明け、真相を尋ねてみた。しかし、誰もが「そんなことがあったのか、知らなかった」と首を振るばかりだった。

雅夫は、心に微かなわだかまりを残したまま、妻と娘と共に記念撮影の列に加わり、景色を見遣った。眼下には陽光を受けて輝く神戸の港、遠くには泉南の山々が春霞に煙り、木々を渡る風が心地良かった。その時、不意に、教会長として初めて信者宅の葬儀をつとめさせていただいた時の記憶が鮮明に蘇った。本部の秋季大祭直前で斎員が揃わず、雅夫は困っていたのだ。

「本当は忙しゅうて、どうにも都合がつかんかったんじゃけど、あんたのお父さんが夢に出てきてなあ……。わしに『頼む』言うて、手を合わすんじゃ」

葬儀の後、父の友人だった親教会の役員先生がしんみりと言われた。

もしかすると……。

お父さん、あなただったのでしょうか。雅夫の胸にぐっと熱いものが込み上げて来た。

「お父さんのために、お前の夢を諦めさせて、可哀想でなあ。神様にお願いしたんじゃ」

 父からの返信は、そう語っているように思えた。


養徳社『陽気』平成十二年二月号「父への手紙」と 平成十六年五月号「返信」 以上2編の短編小説を改編し、一つの小説にまとめました。

※(文中ーーの部分は直線です)

陽だまり語録

あってもなくてもいいけど、あったらいいな、という食後のお茶かコーヒーみたいなエッセイです。「陽気」誌連載(2008.9~2020.12) ペンネーム: ビエン.J.K

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